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大阪地方裁判所 昭和62年(ワ)10116号 判決

原告 若木忠功

右訴訟代理人弁護士 中北龍太郎

被告 大阪府

右代表者知事 岸昌

右訴訟代理人弁護士 前田利明

右指定代理人 西沢良一

〈ほか四名〉

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  原告の請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金五〇万七九〇円およびこれに対する昭和六二年九月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  原告の請求原因

1(一)  大阪府警察本部城東署所属の警察官である谷村茂樹(以下、「警察官谷村」という。)は、昭和六二年七月一三日昼ころ、大阪市城東区野江四丁目二番付近道路上において、原告に対して、免許証を提出させたうえ、原告を違反者とし、自動二輪車の運転者のヘルメット着用義務違反の告知をなすにあたって、所定事項を記入した乗車用のヘルメット着用義務違反点数切符(以下点数切符という)の報告票(告知票と複写になったもの)の自認書欄に原告の署名を求め、これに応じて署名をした原告に対して、同署名の下に左手ひとさし指で指紋を押捺するように要求した。

(二) 原告が右要求を拒否したところ、警察官谷村は、「なんか押せんような悪いことでもしてんのか」「最近在日朝鮮人が指紋押捺を拒否してるけど、日本におる以上日本の法律に従うべきや、君も日本人やったらちゃんと押したらどうや」「指紋を押しとかんと俺らが勝手に書き換えたりするかも知れんやろ」「どうしても押さないのならば逮捕することになる」などと言い、原告が拒否を続けると、警察官谷村は交番にくるように原告に言った。

原告が右は逮捕か任意同行かの確認をしたところ、任意同行だと答えたので、原告は交番に同行することを拒否し、免許証の返還を要請したが、警察官谷村は免許証の返還をすることなく「交番に来い」「指紋押したらええんや」と繰り返すばかりであり、原告が帰ろうとして運転中の自動二輪車(大阪市城き七一九六)のエンジンをかけると、エンジンを切り、さらに「交番に来い」「指紋押せ」と執拗に繰り返した。

(三) その後、原告が「帰る」といってその場を離れようとした際、右自動二輪車からエンジンキーが抜き取られていて、警察官谷村がエンジンを切った際に抜き取っていたことが分かったので、原告は「バイクのキー取ったな。警察がそんな泥棒みたいなまねしてええんか」と抗議したところ、警察官谷村は、右抗議を無視して、免許証とキーを持ったまま自転車に乗ってどんどんその場を離れて進行し、原告は「ドロボー」と叫んで、四、五メートル追いかけたが、結局、警察官谷村に追いつくことはできなかった。

2  前項の警察官谷村の行為(① 前項二記載の指紋押捺を強要する発言を繰り返した行為、② 同二、三記載のエンジンキーを勝手に止め、抜き去った行為、免許証を返還しなかった行為、免許証、エンジンキーを持ち去った行為)は有機的に連動し合ってみだりに指紋をとられない権利を侵害する行為であり、いずれも法律上の根拠がない違法な行為である。

3  警察官谷村の第一項記載の各行為は、公権力の行使にあたる警察官が、その職務を行うについてしたものであるから、被告は、国家賠償法一条一項に基づいて、右行為によって原告が被った後記の損害を賠償する義務がある。

4  原告は、警察官谷村の前記行為により、次の損害を被った。

(一) 慰謝料金三〇万円

人は、個人の尊重の理念に基づく個人の私生活上の自由の一つとしてその承諾なしにみだりに指紋の押捺を強制されない自由を有するのであって、この自由は、憲法一三条によって保障されているものであり、犯罪捜査の場合であっても、すでに逮捕され身柄を拘束されている被疑者の場合以外にも裁判官の令状によらなければ指紋をとることはできないとされているのである(刑事訴訟法二一八条)。

そして、管理化が高度に進行する現代社会にあって、このみだりに指紋をとられない権利はますます重要な位置を占めるに至っているということができる。人は、行動するとき、必ずといってよいほどその場に指紋を残してくるが、国家は多数の指紋を掌握しており、それと遺留指紋を照合することによって、人の動静を把握することができるのである。

このように指紋によって国家による個人の過剰な管理が可能となり、他方管理化への傾斜を深めている今日、みだりに指紋をとられない権利は重要な基本的人権として強く保障されなければならない。

この事情からすれば、警察官谷村の行為の違法性は極めて高いものであり、それだけに、原告の受けた精神的苦痛は重大なものである。

この精神的苦痛を慰謝するための慰謝料としては金三〇万円が相当である。

(二) タクシー代金金七九〇円

原告は、警察官谷村が前記のとおり自動二輪車のエンジンキーを持ち去ったためにやむなく、前記現場から、原告が勤務していた城東郵便局までタクシーに乗車せざるを得なかった。

このタクシー料金は金七九〇円であり、これは、警察官谷村の前記各行為により原告が被った損害である。

(三) 弁護士費用金二〇万円

原告は、原告代理人に対して、本件の訴訟遂行を委任し、その報酬として金二〇万円を支払うことを約した。

したがって、この弁護士費用は、警察官谷村の前記各行為により原告が被った損害である。

5  よって、原告は被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、金五〇万七九〇円およびこれに対する不法行為の日の後である昭和六二年九月四日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する被告の認否

1  請求原因1について

(一) 請求原因1(一)は認める。

(二) 同(二)のうち、原告が指印の押捺を拒否したこと、警察官谷村が交番(最寄りの野江派出所)への同行を求めたこと、原告が任意同行か否かの確認をし、任意同行であることを確認をして同行を拒否したこと、および警察官谷村が自動二輪車のエンジンを切ったことは認めるが、原告が免許証の返還を警察官谷村に要求したことは否認する。その余の警察官谷村と原告との間のやりとりは否認ないし争う。警察官谷村が「在日朝鮮人云々」「逮捕云々」等の言辞を弄した事実はない。

警察官谷村は、原告に報告票の自認書欄に押捺するように原告に求め、その説得をしたが、原告が拒否するので捺印を求めることを断念し、交番への同行を求めたものであり、自動二輪車のエンジンを切ったのは、原告がエンジンを空吹かしをしてエンジン音を高くしたので話がし難くなったので、エンジンを切るように求めたが、原告が無視したので、やむなくしたものである。

(三) 同(三)のうち、警察官谷村がエンジンのキーを所持していたこと、および免許証、エンジンキーを所持したまま自転車で現場を離れたことは認めるが、原告が、その主張のような抗議をしたことは否認する。

エンジンキーは一時預かったものである。

警察官谷村は、「派出所にいって書類をもってくるから、ちょっとここで待っていてほしい」といって免許証とエンジンキーを所持したまま自転車で派出所に向かったのであり、原告が、四、五メートル警察官谷村を追いかけて、「早くしてくれよ」といったので「すぐ帰ってくる」と言い残して派出所に行き、約八分後に現場に戻ってきている。

2  請求原因2ないし4はすべて争う。

警察官谷村は、警察法二条一項および道路交通法七一条の三第一項を根拠として、ヘルメットを着用せずに自動二輪車を運転した原告に対して、点数切符に係る違反行為の告知手続をしたにすぎないのであって、なんらの違法はない。

第三証拠関係《省略》

理由

一1  大阪府警察本部城東署所属の警察官谷村は、昭和六二年七月一三日昼ころ、大阪市城東区野江四丁目二番付近道路上において、原告に対して、免許証を提出させたうえ、原告を違反者とし、自動二輪車の運転者のヘルメット着用義務違反の告知をなすにあたって、所定事項を記入した点数切符の報告票(告知票と複写になったもの)の自認書欄に原告の署名を求め、これに応じて署名をした原告に対して、同署名の下に左手ひとさし指で指紋を押捺するように要求したこと

2  右要求に対して、原告は指印の押捺を拒否し、警察官谷村が交番(最寄りの野江派出所)への同行を求めたところ、原告はそれが任意同行か否かの確認をし、任意同行であることを確認をして同行を拒否したこと、その後、警察官谷村は原告の自動二輪車のエンジンを切り、次いで、免許証、エンジンキーを所持したまま自転車で現場を離れたこと

二  以上の各事実は当事者間に争いがなく、原告は右の違反行為の告知に関連して、警察官谷村が、① 指紋押捺を強要する発言を繰り返し、② エンジンキーを勝手に止め、抜き去り、また、免許証を返還せず、免許証、エンジンキーを持ち去ったことを前提として、これを国家賠償法一条一項所定の違法行為である旨主張するので、まず、警察官のする点数切符に係る違反行為の告知について検討するに、

1  警察官は、点数切符に係る違反者があると認めるときは、その者に対して、すみやかに違反行為となるべき事実の要旨その他の事項の告知をすべきであり、右違反行為といえども、道路交通法九〇条一項ただし書、同法施行令三三条の二にしたがい、免許拒否等を結果する基礎点数が付されるなど不利益処分であるから、もとより、違反行為の存在を探知した警察官としては、その存在を証するに足りる証拠資料の蒐集をすべきことはいうまでもないし、予め作成された様式の書類に違反行為を特定するに足りる必要事項を記入し、その違反行為の存在を認める趣旨での違反者の署名押印を得ることにより、これを右の証拠資料とすることが相当な方法であることも、いうまでもないことである。

2  そうすると、違反行為の告知をしようとする警察官が予め作成された様式による警察本部長に対する報告書に所定の事項(違反行為の日時、場所、違反者の氏名、違反行為の内容等)を記入したうえ、違反者にその存在を認める趣旨での署名押印を求めること自体は、もとより相当行為であるから、違反者が、報告書の自認書欄に署名押印をすることを拒否した場合にはこれを強制することはできないとしても(刑事訴訟法一九八条五項参照)、それが任意性に影響を与える程度に至らないものである限り、署名押印を拒否する違反者に対して、その理由を問い糺すあるいは署名押印をするように慫涌する等の説得活動をすることは、なんら責められるべきものではないし、もとより不適法ないし違法の誹りを受けるものではない。

三  そこで、以上の検討を前提として、警察官谷村の行為についてみてみることとする。

原告が指紋押捺の強要行為として主張するところは、警察官谷村が、① 「なんか押せんような悪いことでもしてんのか」「最近在日朝鮮人が指紋押捺を拒否してるけど、日本におる以上日本の法律に従うべきや、君も日本人やったらちゃんと押したらどうや」「指紋を押しとかんと俺らが勝手に書き換えたりするかも知れんやろ」「どうしても押さないのならば逮捕することになる」等の発言をしたこと、② 原告が免許証の返還を要請したのに、これが返還をすることなく「交番に来い」「指紋押したらええんや」と発言したこと、③ エンジンを止め、エンジンキーを抜き去ったこと、および免許証、エンジンキーを持ち去ったことである。

1  まず、右①および②の発言についてみる。

なるほど、《証拠省略》によれば、多少の違いは別として、右の①および②に類するなにがしかの発言を警察官谷村がし、原告が免許証を返してくれといったのに対して、警察官谷村はこれが返還をしなかったことは、これを認めることができる(《証拠判断省略》)。

しかしながら、前記のとおり、警察官谷村は、当時、原告に対して、原告を違反者とし、自動二輪車の運転者のヘルメット着用義務違反の告知をしようとしていたのであり(右告知にかかる違反行為を原告がしたこととは原告本人の自認するところである)。かつ、原告は報告票の自認書欄に押印することを拒否していたのである。そして、原告主張の右①、②の警察官谷村の発言には、それ自身やや穏当を欠く憾みはあるものの(殊に「逮捕」する等の発言)、結局のところ、原告に対する説得活動の範囲に止まるものであり、警察官谷村は、殴る、蹴る等の有形力を行使したわけでもなく、その説得時間(《証拠省略》に照らしても、原告と警察官谷村のやりとりは、告知書を作成する時間も含めて一〇分間ないし一五分間であり、それを大きく超えることはないから、右①、②に関するやりとりはさほど長時間というわけではない。)周囲の状況(昼頃、公道上であること)、警察官谷村の態度(原告本人も警察官谷村はそれほど興奮していたようにみえなかった旨供述している。)等も勘案すれば、右程度の発言が原告が押印を拒否することの任意性に影響を与えるものでないことは明らかである。「交番に来い」との発言は、原告自身任意同行であることを確認しており(前記のとおり)、これも任意性に影響を与えるものでない。

前説示のとおり、違反者が報告書の自認書欄に署名押印をすることを拒否した場合に、任意性に影響を与える程度に至らない程度にその理由を問い糺すあるいは署名押印をするように慫涌する等の説得活動をすることは違法ではないのであるから、そうである以上、原告主張の①、②の発言は、違法とはいい難いこととなる。

2  次に、原告主張の前記②の免許証の点についてみてみる。

交通の取締りにあたる警察官は、免許証の呈示を求めることはできるとしても、その所持者の同意なくして免許証を預かることはできないと解されるから、原則として、所持者からその返還方を要求された場合にはその返還をする必要があることはいうまでもない。

しかしながら、所持者が免許証の返還を要求した場合に警察官がただちにこれが返還をしなければ、即、違法行為として国家賠償の対象となるとは到底考え難い。警察官は多くの場合、告知書に所定事項の記入をする等の便宜上、所持者の同意(少なくとも黙示の同意)を得て免許証を預かるわけであり、その同意を撤回して所持者が返還の要求をしても、なお返還の猶予方を求めて説得をすることすらあり得るわけである。しかも、その免許証を預かる態様が平穏なものであり、その預かっている時間がさして長時間でなければ、免許証の所持者に何らかの損害が生じるとも考え難い。したがって、一旦同意のもとに免許証を預かったような場合に、その返還の要求を受けながらこれが返還をしなければすべて違法となるのではなく、その返還しなかった時間、返還しなかった理由、その態様等諸般の事情を総合して、不当に所持者の権利を侵害したと評価される場合に違法となるとみるのが相当である。

そこで、これを本件についてみるに、警察官谷村が原告の同意(少なくとも黙示の同意)のもとに免許証を預かったことは弁論の全趣旨により明らかである。そして、原告に最も有利に事実をみるとして、これを原告本人尋問の結果中にみるに、原告が免許証の返還方を申し出た時期は、警察官谷村が原告に対して報告票の自認書欄へ押印すべきことを説得しているときであり、原告に対する違反行為の告知が終了しているわけではなかったのであって、原告の返還要求も、一、二回連続しておこなった程度であるうえ、その返還に応じなかったというのも、単に原告の返還要求に対して返事をしなかったというに止まるというのであるから、これらを総合しても、警察官谷村が原告の返還要求に応じなかったことが違法であるとまではいえない。

3  次に、警察官谷村がエンジンを止め、エンジンキーを抜き去った行為および免許証、エンジンキーを持ち去った行為について検討する。

警察官谷村が原告の自動二輪車のエンジンを切り、次いで、免許証、エンジンキーを所持したまま自転車で現場を離れたことは前記のとおり当事者間に争いがなく、右事実からすれば、警察官谷村は、エンジンを切った際、そのまま原告の自動二輪車からエンジンキーを引き抜き、そのまま所持を続けたものと推認するのが相当である。

そこで、右各行為の違法性についてみる。

まず、証人谷村茂樹は、右各行為はすべて原告の承諾を得て行ったものである旨供述する。なるほど、《証拠省略》からして、原告は、右のエンジンを切った行為については黙示的に同意を与えていたと認められる。しかし、その余の各行為、すなわちエンジンキーを抜き去った行為および免許証、エンジンキーを持ち去った行為が原告の同意のもとにされたとする供述は《証拠省略》に照らして採用し難い。したがって、右各行為は、すべて原告の同意なくして行われたものとみざるを得ないところ、右各行為は、原告が自動二輪車の運転中であったことを考えれば、原告がその場を退去することを困難にさせる行為であって、かつ、前記説示の報告票の自認書欄に押印を求めるための説得活動の域を越える行為であるといわざるを得ない。

証人谷村茂樹は、同人が現場を離脱したのは報告票の自認書欄に原告の押印を得ることができないことから、供述調書を作成する目的で、そのための書類を交番(野江派出所)までとりにいくためにその場を離脱した旨供述する。

しかし、原告は報告票の自認書欄に署名してはいるのであり、さらに供述調書を作成する必要があるという点については客観的にみると疑問を禁じ得ないし、仮にその供述するような目的があったとしても、原告の同意を得ることなく前記の各行為を行うことには、法律上の根拠がないといわざるを得ないのであるから、そのような目的があったとしても、警察官谷村のした前記行為は手続法上不適法との評価を免れない。しかし、警察官谷村の右の行為が、原告に対し指紋を押捺させんとするためになされたものと認めるに足りる証拠はない。

四  損害について判断する。

1  慰謝料について

指紋を強制されない自由は、憲法及び法律上承認された法益であり、これが尊重されるべきことはいうまでもないことであるが、前記説示から明らかなとおり、警察官谷村の行為は原告が押印を拒否するのに対する説得としては適法なものであり、原告の同意を得ずにエンジンキーを抜き去り、免許証およびエンジンキーを持ち去った点において手続法上不適法であるにすぎない。

したがって、警察官谷村の行為は原告が有すると主張するみだりに指紋の押捺を強制されない自由に対する侵害でないことは明らかであり、それゆえ慰謝料を認めることはできない。

そして、原告のエンジンキー、および免許証は、その日のうちに原告に返還されているのであって(弁論の全趣旨により明らかである)この点に関する財産上の損害も原告には存しないというべきである。

2  タクシー代について

原告は、現場から勤務先までのタクシー代金を損害として主張するが、このような金員が警察官谷村の前記認定の手続法上不適法な行為を仮に国家賠償法上違法な行為と解しても右違法行為と相当因果関係の範囲内に存する損害とは認め難い。

8 弁護士費用について

国家賠償法上の損害賠償を認めることができないのでこれを認めることができないのはいうまでもない。

五  結論

以上の次第で、原告の本訴請求は理由がないのですべて失当としてこれを棄却することとして、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 東孝行 裁判官 綿引穣 中垣内健治)

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